クルアーンはムスリムの啓典であり、つまりはイスラームを信奉する人々の啓典です。イスラームは、西暦7世紀初頭に使徒ムハンマドによって、当時アラビア半島内に広く分布していたアラブ人の間に定着した宗教です。クルアーンは天使ガブリエルを介し、神から使徒ムハンマドに啓示されました。そしてその一部は彼の故郷であるマッカにて下されましたが、また別の一部は、彼が無政府の部族社会とは打って変わった政府を樹立することに成功したマディーナにおいて啓示されました。啓示のメッセージは究極的には全人類を対象としたものですが、最初にそれが語りかけられた人々の言葉であるアラビア語で下っています。クルアーンはムハンマドが全人類に向けられた使徒であり、神から派遣された最後の使徒であることを明確に述べています。従って、クルアーンはムスリムだけのものではなく、ユダヤ教徒やキリスト教徒に定められた基本的宗教を確証し、かつそれらの代替という役割を果たす最終的メッセージなのです。今日、全世界のムスリム(イスラーム教徒)の総数は十億以上に上り、世界の全人口のほとんど5分の1を構成しています。クルアーンは、その言語や居住地域を問わず、全てのムスリム・コミュニティにとっての啓典なのです。
クルアーンについてまず理解すべきことは、その形式です。「クルアーン」というアラビア語は、逐語的には「朗誦すること」と「読むこと」両方の意味を含んでいます。そしてその通り、クルアーンは口頭で朗誦され、かつ書式で書き留められたものです。そしてクルアーンは、そもそも声に出して美しい旋律をつけて読むものとされているゆえ、その真の威力は口頭における朗誦の中にあります。そしてその一方で、クルアーンの章句はその暗記と保存の一助となるべく、利用可能なものに筆記されました。それらは個人的に、及び後の段階においては公共事業の枠内において収集され、書物の形態で編纂されました。またクルアーンは、年代順の物語を語りかけるためのものではなく、ゆえに創世記のような時代順に配列された伝承として見られるべきではありません。クルアーンと呼称することの出来るアラビア語の書物は、新約聖書ほどの長さです。そしてほとんどの版において、約600ページからなっています。
クルアーンは、ヘブライ語の聖書や新約聖書とは対照をなしており、天使ガブリエルから聴いたものを朗誦した唯一人の人物の口から発されたものです。他方、ユダヤ教及びキリスト教の啓典は、多数の人間によって書かれた書物と諸々の意見の集合体なのであり、それらは啓示の際の状態とは異なったものなのです。
クルアーンは、様々な長さからなる114の部分、あるいは章から成立しています。各章はアラビア語で「スーラ」と呼ばれ、一方クルアーンの各文、あるいは各節は「アーヤ」と呼ばれます。また聖書と同様、クルアーンは英語でいう節にあたる個別の単位に分割されています。これらの節は長さや韻律において決まった基準がなく、その始まりと終わりは神によって指定されたものであり、人間によって決定されたものではありません。各節は、節の終わりを示す慣用語か、あるいはアラビア語の「アーヤ」という単語によって示される印によって、個別の働きを果たします。 クルアーンにおける最短のスーラは10の語からなり、一方最長のものは第二番目に配置されたスーラで、6100語からなります。また第一番目のスーラは「アル=ファーティハ章(開端章)」で、比較的短い章です(25語)。そして第二番目のスーラから先に進むにつれて、各スーラは徐々に短くなりますが、これが固定化された不変の法則というわけではありません。最後の60スーラを全部合計した紙面は、第二番目のスーラ(雌牛章)一つと同じ位の紙面を占めています。またある種の長いアーヤには、最も短いスーラよりずっと長いものもあります。そして全てのスーラは、唯一つのスーラを除いて、「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム(慈悲遍く、慈悲深き神の名において)」という言葉から始まります。また各スーラの名称は、通常その中に含まれているキーワードに言及しています。例えば、最長のスーラであるアル=バカラ章(雌牛章)は、ユダヤ教徒らに雌牛の犠牲を屠るよう命じたモーゼの説話から、その名称を取られています。そのアーヤは、このように始まります:
「そしてモーゼがその民に、こう言った時のこと:“神は、あなた方が一頭の雌牛を(犠牲として)捧げるよう、ご命じになられる・・・”」(クルアーン 2:67)
クルアーンの諸々の章は異なった長さであったため、預言者ムハンマドの死後の最初の1世紀の内に、学者たちによって大まかな30部に分割されました。この各部分をアラビア語で、「ジュズ」と呼びます。クルアーンのこの分割法は、人々がより組織化された形で暗記、あるいは読誦出来るようにと発案されたものです。それらは、ページの横でその箇所を示す単なる印にしか過ぎないのであり、クルアーンの本来の構成にまで影響を及ぼしてはいません。ムスリムにとっての断食の月であるラマダーン月(ヒジュラ暦9月)には、毎晩の礼拝で通常1ジュズが朗誦されます。そして30日を終える頃には、全クルアーンの読誦が終了することになるのです。
初心者の方は、クルアーン訳についていくつかの点を知っておかなければなりません。
まず、クルアーンとその訳には区別があります。キリスト教的視点においては、聖書はいかなる言語に訳されようと聖書であることに変わりはありません。しかしクルアーンは天使ガブリエルを介し、神によってその使徒ムハンマドに啓示されたアラビア語で語られた言葉ですから、その外国語訳は神の御言葉とは見なされません。神の御言葉は、アラビア語のクルアーンのみなのです。神はこう仰っています:
「実に、われ(神)はそれをアラビア語のクルアーンとして下した。」(クルアーン 12:2)
ゆえにクルアーン訳は、クルアーンの意味に関する単なる説明に過ぎないのです。クルアーンの現代英語訳に、「聖クルアーン訳」と題名がつけられているのは、こういう訳です。クルアーンの翻訳はそれに対する意味理解の努力を払っているに過ぎず、本来の聖典の形式を再現することは‐それがいかなる翻訳であっても‐到底不可能なのです。翻訳されたクルアーンのテキストは、原本の比類なき性質を失わせてしまいます。ゆえに本来のメッセージを他言語に反映させようとするクルアーン訳の程度については、注意が必要でしょう。それらが原本の意味と完全に合致することは、恐らくないからです。こういった理由から、クルアーンの朗誦と見なされるもの‐例えば、ムスリムにとっての毎日5度の礼拝におけるクルアーン読誦など‐は、アラビア語のみに限定されるのです。
第二に、クルアーンの完璧な訳は存在しません。それは人間の手仕事であることから、非常に頻繁に間違いを伴うものなのです。もしかするとある訳は語学的特性において優れ、別の訳はその意味の描写の正確さにおいて特筆すべきものがあるかもしれません。また主流のムスリムたちによって認定されていない、不正確で、時々誤解さえも与えてしまうような多くのクルアーン訳も、、市場に出回っています。
第三に、全ての英訳クルアーンを再検討することはこの記事の射程範囲外にありますが、ある訳は他のそれに比して推奨されます。最も広く読まれている英訳クルアーンは、アブドッラー・ユースフ・アリー訳です。そしてそれに次ぐのが、英国人ムスリム初のクルアーン訳である、ムハンマド・マルマデューク・ピックサール訳です。ユースフ・アリー訳は一般的に言って容認されるレベルのものですが、しかし脚注内の彼のコメントは時に有益、かつ時には風変わりで、受け入れられない場合もあります。また別の広く読まれている訳として、ヒラーリー博士とムフセン・カーン訳「崇高なるクルアーンの意味解釈」があります。これは最も正確な訳であると目されていますが、多くのアラビア語用語の音訳と非常に長い挿入句のせいで、初心者にとっては読み進めるのが困難で混同しやすいものになっています。この新版がサヒーフ・インターナショナル社によって出版されていますが、これはより流暢なテキストで、かつ翻訳の正確さと読み易さを両立していることから、恐らく現存する最善の英訳クルアーンであると言えるかもしれません。
クルアーンの意味は理解し易く明確です。しかし宗教において、正統かつ信憑性のある解説に依拠することなしに何らかの主張をすることには、気をつけなければなりません。預言者ムハンマドはクルアーンを携えて到来しただけではなく、それを彼の教友たちに説明もしたのです。そしてこれらの言葉は収集され、今日に至るまで保存されています。神はこう仰りました:
「そしてわれら(アッラーのこと)は、あなた(ムハンマド)にメッセージ(スンナ:ムハンマドの言行)を下した。それはあなたが、人々に下されたものを明確に説明するためなのである・・・」(クルアーン 16:44)
またクルアーンのより深い意味を理解するためには、使徒ムハンマドとその教友たちのこれらの言葉を扱う注釈書に依拠するべきです。そして、自分自身の文章理解のみに依拠するべきではありません。というのも彼らのクルアーンの文章に対する理解力は、その秀でた知識の枠内に限られたものだからです。
クルアーン釈義には、その適切な意味を汲み取るにあたり、特定の手法があります。一般的に言われる「クルアーン学」はイスラーム学の非常に専門化された分野であり、そこにおいては多様な規則‐釈義学、朗誦学、書体学、クルアーンの奇跡、啓示の下った背景、無効化されたアーヤ、クルアーン文法学、特異な用語、宗教的規定、アラビア語・文学など‐に精通していることが要求されます。尚、クルアーン釈義学者によれば、クルアーンのアーヤを解釈する適切な手法には、以下のようなものがあります:
(1)クルアーン自身によるクルアーン釈義。
(2)預言者ムハンマドのスンナ(言行)によるクルアーン釈義。
(3)預言者の教友たちによるクルアーン釈義。
(4)アラビア語学的見地からのクルアーン釈義。
(5)私見によるクルアーン釈義。但しその正当性は、上記の4つの源泉から導き出されるものに矛盾しないことが条件付けられます。
ムスリムは、クルアーンの偉大さと重要性を完全に確信しています。そしてクルアーンは通常、「崇高なる」「光栄ある」「純粋なる」といった形容詞を伴って言及されます。一体ムスリムがクルアーンを朗誦し、その節を目にし、あるいは単に触れる時でさえも非常に感動するのは、なぜなのでしょうか?
クルアーンの様式は奇跡的であり、神聖な美しさと力強さを備えています。いかに努力したとしても、人間はその天啓の書の一節に値する短い文章すら書くことは出来ないでしょう。この事実は、奇跡的なまでの文章の文学的特質と、言葉の有効性‐その変格と秘められた力‐と多分に関係があります。クルアーンは文盲の羊飼いでさえもその朗誦によって涙させ、およそ14世紀もの間、何百万ものごく普通の人々の生活を形作って来ました。またクルアーンは、人類史に残るような非常に偉大な多くの知識人たちをも育成しました。そして教養のある者たちを立ち止まらせ、敬虔なる信仰者へと変えました。またクルアーンは、最も難解な哲学や、視覚的言語における最も深遠な意味を表現する芸術の源泉でもありました。そして、彷徨していた人類の種族を共同体と文明のもとにまとめたのです。その痕跡は、最も無頓着な観察者にとってさえ顕著なものであるに違いありません。
クルアーンの朗誦は、ムスリムにとって最も崇高で啓発的な任務です。それは‐大部分の非アラブ人信者がそうであるように‐クルアーンの言葉が知的に理解不可能な場合でも、変わりません。ムスリムはクルアーンを、出来るだけ美しく朗誦しようと望みます。そして、ティラーワ(正しい朗誦)の学問は、一つの科学にまで発達しました。特に声の美しさを強調せずに朗唱する時でも、朗誦の特定の原則は守らなければなりません。ハーフィズ(クルアーンを「守る」者)とは、すなわちそれを全暗記している人のことで、非常な尊敬を受けています。そして少年少女は幼少時からモスクに送られ、クルアーンを暗記するのです。
また、その神聖な特性を汚さないためにも、クルアーンは誰かが偶然踏みつけてしまったり、その上に座ったり、あるいはぞんざいに扱われてしまう恐れのある場所に放置されぬよう、気を付けなければなりません。また、何かを上に載せるための踏み台として書物を利用することは非常に忌避されることですから、クルアーンについては言うまでもありません。ムスリムは、クルアーンを読まない時には、それを本棚か書見台に戻します。一部の人々は保存のため、そして身体が清浄な状態にはない時にその必要が生じた際にも触れることが出来るよう、自分のクルアーンを慎重に布で包んでいます。またムスリムは、クルアーンが他の本より上に置かれることを確認したがりますし、それをただ放ったらかしにすることを避けます。またクルアーンは、人が排尿したり排便したり、あるいは大きな穢れ(トイレ、くず山、羊小屋、下水道など)の存在する場所に携帯することを厳しく禁じられています。そのような場所では、クルアーンを読むことさえ許されません。
クルアーンの世界観は、アラビア語と密接に結びついています。アラビア語は、ヘブライ語やアラム語(イエスが話していた言語)と同様、セム系言語集団に属します。クルアーンはそれ自身、「アラビア語の啓典」と特別な定義をしています。そしてそのメッセージは、どんなヨーロッパの言語構造とも根本的に異なる、選ばれた言語の複合構造へと嵌め込まれるのです。セム系言語の内部論理は、インド・ヨーロッパ語族(英語、ラテン語、サンスクリット語、ペルシャ語など)のそれとは非常に異なります。アラビア語の全ての言葉は、いくつかの名詞や形容詞と共に、3つ、4つ、または5つの子音からなる動詞的起源に遡ることが出来ます。そしてその子音は、12の異なる動詞の様式にまで派生変格されます。これが3文字語根と呼ばれるもので、特定の語はそこに長母音や短母音を挿入され、そして接尾辞と接頭辞を付加されることによって作られるのです。このような語根は、生を与えられる、つまり母音によって有声化されるまで、「死んだ状態」すなわち発音不可能な状態にあります。そしてこのような位置づけゆえに、アラビア語の基本的意味は様々に異なる方向において発展するのです。時に語根は「肉体」、そして母音化は「魂」と描写されます。あるいはまた、その語根から巨大な樹木が成長するのです。アラビア語の単語の意味と、そこに関連した概念を理解することなしには、そこに関連する意味の豊かさや、単語を英訳することの困難さ、そして元来が明確であるアラビア語の単語間の相互関係を正しく理解することは不可能です。
クルアーンの崇高な言語に対するムスリムの傾倒は、アラビア語文法及び修辞学の学習へと発展しました。それは非アラブ人がイスラームに入信してその数が増大し、啓示の言語の特色について学習する必要が生じた時に顕著でした。クルアーンは翻訳不可能であるという信念は、彼らイスラームへの入信者に対して、アラビア語学習か、あるいは少なくともアラビア文字学習を不可避なものとさせました。しばしばこの現象は、アラビア半島以外の全アラブ国家がそうであったように、事実上諸々の国家にアラビア語を自国語として採用させることになりました。またこのことは、アラビア語文字を受容した他の言語(例えばペルシャ語、トルコ語、マレー語など多くの言語)に対し、巨大な影響を及ぼしました。またクルアーンの言葉と表現は、非アラブ人や非ムスリムのアラブ人の間でさえ、高尚な文学の中ではもちろんのこと、日常会話においても使用されているのです。
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